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お知らせ

企画展「野口雨情の童謡-資料館収蔵品を中心に-」の「詳しい」展示解説

野口雨情の妻ヒロ

 ヒロのプロフィール

 実家の高塩家

 旧姓高塩ヒロは、栃木県喜連川(現在の栃木県さくら市)の素封家高塩家八代目武の三女として、明治15年(1882)9月22日に生まれました。野口雨情は、同じ年の5月29日生まれですので、二人は同じ歳です。

 高塩家は江戸時代初期に遡る喜連川藩士の家柄であり、明治維新後は、醤油醸造業を始めるなど喜連川を代表する資産家でした。

 ヒロと文学

 ヒロは明治時代の女性としては珍しく、文学に興味がありました。明治38年8月6日付の『いはらき』に、「天使の歌」と題する詩を発表しています。

 天使の歌 秋星女史(※ヒロの筆名) 『いはらき』明治38年8月6日付 ※太字が引用部分 

月出を待つて居る一人の天使に妾は昨夜はからずも磯の上で逢ひましたの。

紫の羅を着て、真白な薄い羽根の翼が背中にあるんですの、そして優しい、それはそれは美しい神々しい婦人なんですもの、妾は只々天界へ行って神様にでも逢つたかのやうな心持ちが致しましたのよ。

その天使の方は、月が出ると共に、月の光に乗つて、天女宮といふ御殿へ帰るのだと妾に言つたきりで黙つて磯石の上へ、チヤント腰をかけて東の方ばっかり見て居りますの。妾は、なにとなく此様な事を考えて居りました、妾は人の子で、そして罪の子でしやう、汚れた身ですもの、どうして天女宮のやうな神様やお使いのかたばつかり住んでいる御殿なんかへ行かれるもんですか。

あなた、は夫があるの?』と突然に天使の方が聞くもんですから『エイ独身です』ッて妾は恥ずかしいから嘘を言つたのよ、すると『嘘でせう、本当?』と念を推して聞くんでせう、だから妾も『本当です』と思い切つて言ひましたの。

さうするうちに東の方に 明い紅の光が浮んで来ましたの、そして白い雲が陽気のやうに群がつて居りますの、すると天使の方が立ち上がつて、妾にも一所に手を振れつて言ふもんですから、その方に亜いて手を振りましたの、一ィ二ィ三、と数へつつ手を振るうちに妾は眼が眩んで見えなくなりました。耳も聞こえなくなりましたの、妾は丁度夢でも見て居るやうに恍惚となって仕舞ひましたの、そして妾はこんな事を考へ初めましたの、夫のある身なのに無いッて嘘を言つたから神様のお咎めではありはしないかと。こう考えると恐くつてく身体が頗えますの。で妾は天の神様に詐悟を自白して謝しましたの。

すると瞬間に暗世から夜が明けたやうに妾は元の自分になりましたの、けれども天使の方はあたりに影も形もなくなって只月の光のみが青く海の上を照らして居るばかりでしたの。妾は此の出来事を家へ帰つて夫に話しましたの、すると夫は『天使の歌』といふ一遍の詩を作つて妾に呉れましたの、妾はこの『天使の歌』を朗吟して毎夜のやうに彼の磯の上へ行きますの、そして妾には夫のある事をお話してお詫びをしやうと思ふのですけれども天使の方はそれっきり妾に逢つて下さらないんですの。

 読み下しは、「『いはらき』紙上における雨情とヒロ、そして文壇」『第58回企画展さくら市ゆかりの詩人 野口雨情』さくら市ミュージアム-荒井寛方-より 2006年4月より

 

雨情とヒロの結婚について触れた最初の資料

 「いはらき文士風聞録(三)『いはらき』明治38年9月24日付

『雨情とひろの結婚』の画像

野口秋星 女史は栃木の人ですつて、そして、昨年の末、雨情君と鴛偶の約諧ふや良辰を卜し媒介を以て洞房華燭の夕、同巹の礼を修めて偕老を誓ふたと云う目出度い話しを聞いたですの、だからまもなく私も観海亭を訪ひ、すると雨情君に迎へられて奥の八畳で対座のみぎり、誰れやらの忍び足、静かに開けて襖ごし、楊貴妃が花の顔李夫人が芙蓉の睫、蘭麝の匂い香はしく、夏野の萩の風に靡くありさま、翠の山に月の出る粧ひなのですから、私はソコソコにも初対面の式丈けは無事に済んだですの、コワイものは見たいの例へ、馬琴の言草ぢやなくもながしめ見る、眼許の中には千万無量の愛嬌溢れ、莞爾と笑ふ、靨のうちには傾城傾国の力を貯はへられて、それに、起つ姿は彼の芍薬の花も物かは、羞らふ形は朝さきいづる桜のやうなのですの、﨟たけて花の顔、淑姫に、愛嬌つき、眉は初春の柳葉に似て、雨を帯びたる色妙に、花ならば是梢の蕾、月ならば是五日の影、鸞鳳の眼、真朱の口よりもるゝ声は、いと優しいですの、この優しい声の縺れの綾は五色の艶に染めなされ、麗はしとの評いや高き彼の『苦悶』の一曲以て女史が詩想の一班を伺ふに足ると聞いたですの、是れよりは雨情秋星合作のものを公にして欲しいと云うのは異口同音の要求ですの、幸なる哉雨情君、福なる哉秋星女史、天妃山下磯の汀、残照を惜むこの二驥麟子健在なれ。

 読み下しは金子未佳『日本の作家100人 野口雨情 人と文学』勉誠出版 2013年8月より

野口雨情の「詩心(うたごころ)」

 野口雅夫「特集随筆 没落をうたった「黄金虫」父・雨情の童謡」平凡社1973年12月

 野口雨情の童謡には、雨情自身の日常やその時の心境が表現されていることを、長男の野口雅夫氏が回想しています。

 ※太字が引用部分。

 父はよく「美しいものは誰が見ても美しい。だが、きたないものの中にも美はあるものだ。それを唄に書いてみたい」と常に言っておりました。また「唄は誰が聞いてもすぐわかる生活の中から生まれた大衆の地底の叫びでありたいと」とも言っておりました。

 童謡「蜀黍畑」

蜀黍畑もその時代の農家の生活がにじみ出た父らしい一面がうかがわれます。

秋の日はつるべおとしに暮れてしまいます。一日中庭や畑に放し飼いにしていおくにわとりを、鳥小屋にいれるのが私の仕事でした。父が縁側から「早く鳥小屋にいれな」と言ったものです。

 童謡「黄金虫」

 家が没落して土蔵は修理することもできず、朽ち果てた板蔵は隣村の醤油屋に売ることになりました。父は寂しそうに解体されて荷馬車で運ばれてゆくのをじっと見つめていました。その父の姿を今でも忘れません。家にはいるなり「雅夫、筆と紙とを持ってこい」と言うのです。その時のことが後の「黄金虫」の原型になったのだと思います。

黄金虫は 金持ちだ

金蔵建てた 蔵建てた

飴屋で水飴 買ってきた

 童謡「七つの子」

 植林の好きな父は、よく私を連れて山に行きました。モンペを」はいた父の後から弁当箱をさげてついて行ったものです。あの頃は、カラスがずいぶんおりました。大きな松の木を中心に、降りてくるものもいれば、飛び立っていくのもあり、それはそれは賑やかなものでした。父はその様子を眺めながら「雅夫、カラスはなんて鳴いているんだろうね」と」言うのです。後の「七つの子」は、群がる裏山のカラスを歌ったものだと思います。その時の父は、カラスを歌ったものだと思います。その時の父は、カラスの鳴き声を「可愛い可愛い」と聞いたのでしょう。民話やその地方の草刈り唄など、民衆知恵と実生活からにじみ出た歌などを集めていた父にとって、カラスにせよキツネにせよ友達だったのです。父はよく「童謡は歌うために生まれたもの、唱歌は歌わすために作られたものである」と言っておりました。

 

野口雨情と大正時代の童謡運動

 鈴木三重吉主催 児童雑誌『赤い鳥』大正7年(1918)刊。この童謡雑誌は、芸術的な「童話と童謡を創作する最初の文学運動」をモットーにして創刊された児童雑誌です。

 翌大正8年(1919)に童謡雑誌『金の船(後に金の星)』が斎藤佐次郎によって創刊されました。野口雨情は編集や投稿童謡の選者として、この童謡雑誌にに深く関わります。大正9年9月号に発表した童謡「十五夜お月さん」で、雨情の名は一躍世に知られました。この年に雨情は上京して、『金の船』編集部勤務となりました。雨情はその後名作を次々と発表して、童謡運動の先頭に立ちました。そして積極的に講演を行い、童謡に関する書物を執筆するなど、積極的に童謡普及活動に取り組みました。